浄土真宗では位牌はどうするのか?
位牌は仏壇につきもの、と思っている人が多いのですが、これは仏教本来のものではありません。
位牌というのは、位の牌ということで、故人の生前の官位と姓名を書きつけた木札をいいます。
これは儒教の礼儀であって、仏教に元来あったものではありません。
浄土真宗では、位牌は用いません。もちろん、御仏壇の中に入れることも致しません。
御仏壇は本師本仏の阿弥陀如来を御安置するところですから、位牌のほかに故人の写真(遺影)も入れることは致しません。
御仏壇に位牌などを入れないのは、浄土真宗の礼拝の対象はあくまで阿弥陀仏一仏であるからです。
浄土真宗は阿弥陀仏一仏が礼拝の対象
お釈迦様の説かれた教えの結論は『大無量寿経』です。
その『大無量寿経』の結びの言葉は
「一向専念 無量寿仏」
です。
これはすべての人々の救われる道は唯一つ、阿弥陀仏一仏に向かって専念するより外にありませんから、お釈迦様が
「すべての人々よ、一向に専ら無量寿仏(阿弥陀仏)を念ぜよ」
と教えられたお言葉です。
このお釈迦様の教えを、そのまま伝えられた親鸞聖人は、『観無量寿経』の第七観に、
「仏、阿難及び韋提に告げたまわく、
諦聴諦聴、仏、今汝が為に苦悩を除く法を分別解説すべし」
(観無量寿経)
“お釈迦様が、阿難尊者と韋提希夫人に「よく聴くがよい。その苦悩を除く法を説く」”
と告げられた時、お釈迦様の姿が消え、忽然として空中に阿弥陀仏が立たれました。
お経には、その時、阿弥陀仏の左右に、観音菩薩と勢至菩薩の二菩薩も立せられたと説かれていますが、親鸞聖人は故意に、観音、勢至の二菩薩を取り除いて、阿弥陀仏一仏となさっています。
その理由は、観音・勢至は、阿弥陀仏の慈悲と智慧とを表しているのだから、阿弥陀仏一仏に摂められてのことであると『御伝鈔』には、次のように説かれています。
「今の行者、錯(あやま)って脇士につかうることなかれ、
ただちに本仏をあおぐべし」
(御伝鈔)
“人々よ。間違って観音や勢至に仕えてはならぬ。ひたすらに阿弥陀仏一仏を専念せよ”
阿弥陀仏とは別に観音や勢至を安置すると、ややもすれば阿弥陀仏の外に観音菩薩や勢至菩薩がいるように思うて、観音や勢至に向かって祈願・祈祷する迷信におちいる人があるかも知れないと親鸞聖人は思われたからです。
私たちの迷いが深いものですから、位牌はもちろんのこと、できるだけ阿弥陀仏以外のものは御仏壇の中に置かないようにするのがよいのです。
先祖に対してはどうあるのが良いか
位牌も用いなければ、遺影も御仏壇に入れないとなると、先祖に対して、どう向き合えば良いのか、と思われる方もあるでしょう。
本当に、私たちが先祖のご恩を思う時は、阿弥陀仏を一向専念して、一日も早く信心獲得(阿弥陀仏に救われること)して、絶対の幸福になるまで聞法精進することが大事であると浄土真宗では教えておられます。
先祖が私たちに最も望んでいることは私たちが本当に幸福になり正しく生き抜くことだからです。
位牌のことを気にかけておられる御門徒の方は多く、よく聞かれる質問の一つだと思います。
位牌に関する質問をご縁として、あくまでも、阿弥陀仏一仏に向かうことが浄土真宗の私たちの、片時も忘れてはならないことであることを、浄土真宗の住職、門徒総代は、御門徒の方々にお伝えしていかなければなりません。
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安武 勇 (日曜日, 11 6月 2017 11:21)
浄土真宗では位牌ではなく過去帳を使用する。お参り以外ではキンを打ってはいけないとか。誰が何時、決めたのか疑問に思う。私は位牌。妻は過去帳を拝むとなれば両方納めなければ収拾が付かない事態となっております。
管理者 (月曜日, 12 6月 2017 13:23)
コメントをいただき、ありがとうございました。
位牌は、元来、仏教のものではないため、位牌は用いないとご理解いただければと思います。
過去帳も、よく誤解されるのですが、礼拝の対象ではなく、あくまで記録しておく帳面という扱いです。
亡くなった方を想う時、私たちは、阿弥陀仏一仏に向かって合掌、礼拝することが、故人の最も喜ばれることであると親鸞聖人は教えてくださっています。
どうぞよろしくお願い致します。
西来 (水曜日, 22 1月 2020 09:43)
法名は3文字と聞いているが,代々浄土真宗大谷派(東)にもかかわらず皆居士や信女がついており,今回祖母ように依頼したところ30万円と言われた。結局仏の沙汰も金次第なのか?大いに失望した。今後子供たちに継がせるか迷うばかり。
管理者 (木曜日, 23 1月 2020 14:12)
コメントをいただき、ありがとうございました。
浄土真宗の法名は、男性であれば、釈○○、女性であれば、釈尼○○です。法名の有無で、その方の後生がどうなるかが決まるものでもありません。
やはり、浄土真宗の教えを分かるように、寺院側が、日頃から伝えてくださっていれば、こんなことにならなかったのでは?と感じ、残念に思います。