浄土真宗が東と西に分かれた理由

本願寺が東と西に分かれた原因について知るには、戦国時代の石山戦争にまでさかのぼらなければなりません。

 

 石山戦争とは、あの織田信長と、石山本願寺との10年以上に及ぶ戦いです。

 

 石山本願寺は、もともと蓮如上人が、現在の大阪城のある所に寺院を建立され、それが後に発展し、石山本願寺となりました。

 

 天下布武を目指す信長は、たかが、浪人や農民、町民らの集合である本願寺ぐらいと、甘く考えていましたが、「進めば極楽、退けば地獄」と大書したムシロ旗をかかげて、一死報恩の覚悟で戦った「南無六字の城」のために、実に、10年以上の持久戦を続けざるをえませんでした。これには江戸時代後期の歴史家として知られる頼山陽も、

 

濃蹶(のうけつ)・峡顛(きょうてん)いずれか抗衝(こうしょう)せん

梵王(ぼんのう)ひとり降旌(こうせい)を樹(た)てず

豈(あに)図らんや右府千軍の力

抜き難し南無六字の城

 

“美濃を制した斎藤道三(濃蹶)も、甲斐の武田勝頼(峡顛)も、あらがう術のなかった織田信長(右府)に、本願寺の顕如上人(梵王)だけが、屈しなかった。だれが予想したか、あの信長千軍の力でも攻め落とせなかったとは。驚くべき南無六字の法城、石山本願寺”

 

と驚いています。信長が天下統一のチャンスを失ったのは、この石山戦争のためであったといえるでしょう。

 

 最後は、正親町天皇を仲裁にたてて和議を求めてきたのですが、その時、開城するか、抗戦するかで、本願寺内の議論が真っ二つに分かれました。これが東・西本願寺分裂の遠因となったのです。

 

 時の、11代目の宗主、顕如上人と三男の准如とは、和解の勧めに従おうとしたのですが、長男の教如は、籠城して徹底抗戦を主張してゆずらず、両派は、厳しく対立することになりました。

 

 一朝の思いつきで、叡岳三千坊を焼き払い、美女小童に至るまで数千人を火中に投げ込んだ信長です。

 

 また、和解したにもかかわらず信長が、残虐非道な大量殺戮を行った長島一揆なども知っていた教如は、信長のやり方が、どんなものか、骨身に沁みていたに違いありません。

 

 そこで顕如上人は、自分に従わない長男の教如を義絶して、三男の准如をたてて、親鸞聖人のご真影と共に和歌山の鷺森別院へと移ったのです。

 

 ところが、教如の予測どおり信長は、その後、雑賀騒動を機として浄土真宗殲滅を謀っていました。

 

 天正10年(1582年)6月、備中(現在の岡山県西部)の秀吉の加勢に向かった明智光秀の大軍が、大江山にさしかかるや、敵は本能寺にありと信長を討ちました。この本能寺の変があったがために、本願寺は難を逃れることができたわけです。

 

 三日天下の明智光秀は、浄土真宗にとっては恩人といわねばなりません。

 

 後日、本能寺の変を知った顕如上人は、教如の義絶は解きましたが、親子の溝は深まるばかりで、三男の准如へ本願寺12代の職をゆずることになりました。

 

 これが今日の西本願寺となったのです。

 

 その後、戦乱が治まって利口な豊臣秀吉は、さわらぬ本願寺にたたりなしで、一生終わりましたが、徳川家康は、巨大な本願寺勢力の分割を謀って、不満鬱積していた教如に目をつけ、寺地を寄進して東本願寺を別立させることに、まんまと成功しました。

 

 かくして、これより浄土真宗の勢力は真っ二つに分断され、東・西本願寺は冷戦を続けるようになったのです。

 

 西本願寺が御影堂を南に置けば、東本願寺は北に建てる。片方が『御文章』といえば、一方は『お文さま』という。一方が「領解文」といえば、片方は「改悔文」とする。

 

 西が報恩講を正月に勤めると、東は11月に変える。その他、僧侶の位階、学階、仏前の荘厳、『正信偈』の読みぐせまで変えて、互いに敵愾心をそそり、いがみ合うようになったのです。

 

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コメント: 1
  • #1

    たいめい (金曜日, 17 3月 2017 13:02)

    今、現在も東西本願寺はいがみ合っているのでしょうか?