浄土真宗における祖先の供養

先祖の供養について、古来、人情の美風でもあり仏教でも大切なことだと説かれていますが、本当の先祖の供養の仕方を知らないために、多くの迷信の温床になっています。


立派な墓を造ったり盛大な葬儀や法事を勤めたりすることが、何よりの先祖の供養だと思っている人のいかに多いことでしょう。

しかし、私たちが本気で先祖の供養をしようとする時、今までの習慣にとらわれず、まず考えねばならないことは、先祖の最も喜ぶことは何かということです。

 

先祖の供養の仕方はそれによって決まります。

なぜなら先祖の心に反する言動に、いくら大金を投じたり、苦労したりしても、先祖の供養にはならないからです。

最も先祖が私たちに望んでいることを知ろうとすれば、亡き先祖に聞かなくても、私たちが子供や子孫に一番、何を願っているかを考えれば分かることです。

それは正しく生きよ、幸福に生きよということに違いはないでしよう。

 

そうであれば、私たちの先祖も、私たちが正しく、幸福に生きることを最も喜ぶことは疑う余地がありません。

されば私たちが仏法を聞き求め、阿弥陀仏に救い摂られて、本当の幸福になり、たくましく生きることこそが、先祖の最も喜ぶ最高の供養となるのです。

 

「親鸞は父母の孝養のためとて
 念仏、一返にても申したることいまだ候わず」
(『歎異抄』第5章)

 

“親鸞は、亡き父母の追善供養のために、一遍の念仏も称えたことがない”と親鸞聖人が仰ったのは、私たちの先祖に対する真の追善供養のあり方を、身をもってお示しになったことを知らなければなりません。

 

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コメント: 1
  • #1

    松岡 和子 (日曜日, 16 8月 2015 09:23)

    私が生まれ育った家の慣習をうのみにしてとても間違ったことを、あたかも慣習を自分の生き方かのように思い込んでいたことを知って、うからうろこが落ちた思いです。お盆・盂蘭盆の意味を知ってこれから、心に常に両手を合わせ、「南無阿弥陀仏」と唱えながら、今生きていられることに感謝して、生きている間に生として誕生させていただいたありがたさを、その人のためにいかせていただこうと思います。とても大事な気付きをいただけ感謝いたします。これからもよろしくお願いいたします。