浄土真宗の葬式や法事の意味

一般の葬式のイメージと仏教の教え

以前、納棺師という職業を描いてアカデミー賞を受賞した映画『おくりびと』が、話題になりました。

 

「死者の尊厳を保ち、送り出す別れの儀式」という、多くの人の喪葬に対するイメージが作品への共感となったのでしょう。

永遠の別れに接し、埋め尽くせない空虚感、何もしてやれなかった無力さ、自責の念、やり場のない思いに苦しむ遺族の方は多いでしょう。

 

その心を埋めるように葬儀は執り行われ、何とか悲しい別れにけじめをつけ、癒やしを求めます。


『葬式は、要らない』という本が話題となり、反論書も出版されるなど、新聞、テレビ・ラジオでも、葬儀について考え直す特集が組まれました。

 

あるテレビ番組では、
「父は、葬式をしないでほしいと言っていたんですが『ゴメン、お父さん、やっぱりお葬式させてね』と、私たちは葬式をしました」
という人がありました。

 

「弔いは、亡き人を慰める儀式と思われていますが、残された者のためにやるんですね」
とのコメントが印象的でした。

 

葬儀や法事にさまざまな意味を見いだす人があり、それを詳しく教えられたのが仏教、と漠然と思っている人が多いのではないでしょうか。

 

しかし本来、仏教には、葬式をせよ、という教えはないのです。

 

お釈迦さまは一度として葬儀を行われたことはありません。お弟子方にしてもそうです。元来、仏教は、生きている人のために説かれた教えですから、それは当然のことなのです。

 

亡くなられた方の最も喜ぶことは?

葬式や法事には、亡くなられた方をしのんで、みんなで仏法を聞くご縁にすることが大切です。

 

それが亡くなった方の最も喜ぶことだからです。

 

生きている人が、生きている時に、本当の幸せになれる道を、仏法では説かれています。

 

人生の最も大事なことを知るご縁が葬儀や法事なのです。

 

死は他人事ではないからこそ

だれもが生まれたからには必ず死にます。いつまでも生きていられる人は、過去・現在・未来、どこにもありません。

 

「上は大聖世尊より始めて、
 下は悪逆の提婆に至るまで、
 逃れ難きは無常なり」

(御文章)


"最も尊いお釈迦様も、そのお釈迦様を殺そうとした悪逆の提婆達多も、無常(死)からは逃れられないのだ"

 

浄土真宗の蓮如上人は警鐘されます。

 

地球上で毎日、約16万人余りが亡くなっている、といわれますが、テレビや新聞でそのように報道されても、私たちは少しも驚かず、他人事と思っています。

 

毎日、地球上の16万人に当たる宝クジと聞けば、「自分にも当たるのでは?」と期待したりしますが、私たちは毎日、死のクジを引いているといえるのではないでしょうか。

 

今日は当たらなくても、明日は16万人の中に入るかもしれません。これから数十年の間には、100パーセント当たるくじなのです。

 

やがて必ず死ぬのに、なぜ生きるのか

忙しい忙しいと朝から晩まで私たちは東奔西走していますが、そんな人生、一体どこへ向かっているのでしょう。

 

自己を省みることが大事ではありませんか。

 

考えてみると私たちの人生は、暗闇の中を完全に目隠しされ、必ずぶち当たる「死」という巨大な壁に向かって突っ走っているようなものです。

 

そこに"人間に生まれてきてよかった"の喜びはあるでしょうか。

 

そんな中、葬儀や法事に参列したり、墓前で静かに故人を振り返ることは、
「私も一度は死なねばならぬ。あっという間の人生、何のためなのか」
と、人生をまじめに見つめる得難いチャンスになるでしょう。

仏教を説かれたお釈迦様は、

 

「あなたはこのため一つに生きている。どんなに苦しくても生き抜かねばならないのだよ」

 

と明らかな生きる意味を示しておられます。

 

その生きる目的とは一体、何でしょう。

 

生きる目的とは何か

大宇宙にまします仏方の本師本仏(先生)である阿弥陀仏が、すべての人を必ず無上の幸福に救い摂ってみせる、という超世希有(大宇宙に2つとない)の約束をなさっています。

 

この阿弥陀仏しか、私たちすべての人間を救い切る力のある方はありませんから、

 

「一向専念無量寿仏」(大無量寿経)

 

“阿弥陀仏だけを信じよ”とお釈迦様は生涯懸けて明らかになさいました。

 

阿弥陀仏のお力によって、生きている今、本当の幸福になることこそが、すべての人の生きる目的である、と示されたのが仏教なのです。

 

葬儀は、人生に阿弥陀仏の救いのあることを、参列した人が聞いて、本当の幸せになる機縁です。

 

そのような葬儀こそ、亡くなった人の最も喜ぶことになると親鸞聖人は仰っているのです。

 

 

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