蓮如上人の『御文章』

『御文章』(『御文』ともいう)は、「文」とあるように、蓮如上人が御門徒にあてて出されたお手紙です。

親鸞聖人の教えを仮名交じりでかみ砕いて書かれた『御文章』は「凡夫往生の手鏡」といわれます。私たちが助かるに大切な要はすべて書いてあるから、手鏡のように常に手元に置いて読みなさいよ、ということです。

ですから、朝晩の勤行で親鸞聖人の『正信偈』とともに拝読されてきました。

『御文章』は、人から人へ次々に書写され、親鸞聖人のみ教えが全国に普及したのです。

『御文章』は、蓮如上人がお亡くなりになった後、孫の円如法師が全国を回りお手紙を集め、五帖八十通の『御文』に編纂されたものです。

一帖から四帖目までは年代順に、五帖目は執筆時期がハッキリしないものをまとめられています。

それ以外に「帖外御文」があります。

数ある『御文』の中でも特に有名なのは「白骨の御文」です。

「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに……」で始まる文章は屈指の名文といわれ、葬式などで読まれますから浄土真宗以外の人にも広く知られています。

 

浄土真宗の住職や門徒総代は、このようなお言葉をご縁として、親鸞聖人の教えを伝えられるように、『御文章』の意味をよく学んでおかなければなりません。

 

有名な蓮如上人の『白骨の御文章』の解説を、以下に載せておきました。

 

蓮如上人の『白骨の御文章』の意味

【それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり】

「人間の浮生なる相」とは、人間の生き様は丁度、海に浮いているようなものであるからです。近くに漂う丸太や板きれは、健康や妻、子供、お金、名誉や地位をあらわされています。

 

丸太や板きれにすがった時は暫くやれやれと思いますが、所詮それらは浮いたものですから、やがてクルリと廻って塩水飲まされるのです。

欲しいものが手に入っても喜びは一時的です。大学合格の受験生が胴上げされている時は夢心地ですが、感動は一週間も続きません。こんなものに、ねじり鉢巻きで寝ずに勉強していたのかと馬鹿らしく思う人もあるでしょう。しかし、またまた懲りずに別の丸太や板切れを求めて苦しみます。

 

どこまでいっても苦しみは絶えず死んでゆく人間の一生を「浮生なる相」と蓮如上人は言われているのです。


【されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや】

医学の進歩で長寿になったと言っても、どこに万年生きている人を聞くでしょうか。たとえ100年生きたと言っても、悠久の宇宙の歴史から見れば、アッという間にすぎません。


【我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず】

生まれたからには死なねばならないと、理解はしていても今日、明日とは誰も思ってはいないでしょう。考える死は他人の死であって自分の死は微塵も思えないのです。

しかし「明日もあると思う心」は「永久に死なぬと思う心」です。自分のカゲを踏もうといくら走っても踏めないように、明日生きられると思う心は、翌日もまたそう思う心ですから永久に死なないと思っている心なのです。死ぬのはあくまでも他人であって自分が死ぬとは考えられません。

そんな心を見抜いて「我や先」だと忠告されるのです。自分の死は他人の先にあるのだよ、と蓮如上人の警告です。


【おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり】

釈迦にお弟子が尋ねたことがありました。
「仏の悟りを開かれた世尊には、一切お悩みはございませんでしょう」
その時、釈迦は、唯一つ悩みがあると仰って、
「雨が降る如くバタバタと地獄に堕ちる様が私の心に映るのだ。それひとつが悩みである」
と答えられたといいます。

世界の年間死亡数は8千万とも9千万とも言われます。今日も何万の死者が出ているかわかりません。秒針がカッチという間にバタバタと人は死んでいるのです。その中にやがて自分も入ります。


【されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり】

「行って来るぞ」と家を出るのは「夕方、帰る」つもりだから「ご飯の用意も風呂もわかしておけよ」という意味でしょう。

しかし、帰れなかった人々の報道が日々飛び込んで来ます。

駅のホームで酔った男に突き飛ばされ轢死する人、通り魔の犠牲になる人、一寸先は闇です。朝、元気に家を出たのに夕方は変わり果てた姿を迎えねばならない辛い場面がテレビに映しだされます。


【既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず】

私たちは生と死はまったく別のもので、死を遠い先のことと思っています。

しかし、ふーっと吐いた息が吸えなかったら、吸った息が何かの拍子で吐けなかったら、その時から後生が始まるのです。一息一息が生と死とが触れあっているのですから、これほど近いものはないのです。

「無常の風」とは死の風です。手術で助かったと言っても死を少し先送りしただけ。
やがて世界中の医者や看護師を集めても、どんな薬を使っても止めることのできない無常の風に襲われます。
泣き叫ぶ身内の人たちが「目を開けて」「一度でいいから笑って」「何か言って」と遺体にとりすがり、どれだけ訴えてもなんの反応も示さない。永遠の別れがやってくるのです。こんな一大事があるでしょうか。


【さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり】

 

どんなに大事な人でも命絶えれば、いつまでもそのままにはしておけません。間もなく葬儀の段取りの相談が始まります。
野辺送りをすれば、残るものは一つまみの白骨だけ。これが人間の結末です。


【されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり】

高齢者から順番に死んでゆくのが決まっていれば「老少不定」とは言われないでしょう。若くても交通事故やら病死やら無常の年はみな同年なのです。
だから「誰の人も」と言われ、「早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏の救いを頂きなさい」と蓮如上人はお勧めになっているのです。

 

 

 

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