浄土真宗の教えを求める御門徒たち(3)

有名な『歎異抄』第2章に、関東から命懸けで親鸞聖人のもとへ教えを聞きに行った同行(御門徒)のことが記されています。

 

「おのおの十余ヶ国の境を越えて、
 身命を顧みずして尋ね来たらしめたまう御志、
 ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり」

 

“あなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から身命を顧みず、この親鸞を訪ねられたお気持ちは、極楽に生まれる道ただ一つ、問い糺すがためであろう”

関東からはるばる命懸けでやってきた同行たちに、このように親鸞聖人は語りかけられたのです。

 

関東の同行は命懸けで京都の親鸞聖人のもとへ旅をした

親鸞聖人は、40歳を過ぎられてからの約20年間を関東で過ごされ、仏法を伝えられました。
そして、還暦を過ぎ、生まれ故郷の京都にお戻りになっておられます。

鎌倉時代、関東の常陸(ひたち)から京都までに、武蔵(むさし)、相模(さがみ)、駿河(するが)など十以上の国が並んでいました。

それらの国境を越えて、関東の同行たちは、「何としても親鸞聖人にお聞きしたいことがある」と、命懸けの旅を敢行したのです。

今日なら、新幹線で約3時間の距離、電話で尋ねるのも一つの方法でしょう。

700年前は、しかし、片道1ヵ月、往復2ヵ月を踏破しなければなりませんでした。
長期にわたる宿代、食費など、お金を捻出するには、大変な苦労があったのです。

しかも、箱根の険路を越え、大井川を渡り、山賊、盗賊、護摩の灰などの危険にさらされての道中、無事に着いても帰れる保証のない、まさに命懸けの旅でした。

ある者は田畑を売り払い、またある者は、家族と水杯を交わして京都へ向かったのです。

いったい何を聞きに、それほど決意で旅をしたのでしょうか。

 

何を求めて親鸞聖人のもとへ旅をしたのか

それは、親鸞聖人が京都へ帰られた後、同行たちの信仰が動乱する大事件が続発したからでした。

日蓮宗を開いた日蓮が“念仏は地獄行きのタネ”と熱烈に触れ回り、親鸞聖人の長子・善鸞が“父・親鸞聖人より秘密の法門を授かっている”と儀式によって信心を授ける邪義(誤った教え)を言いだしたのです。

信仰が大きく動揺した関東の同行は、親鸞聖人に「往生極楽の道」一つを問いただすため、命の危険を顧みず、京都へ旅をしたのでした。

そのような関東の同行の気持ちをよくよくご存知の親鸞聖人は、

「身命かけて聞きに来られた目的は、往生極楽の道一つであろう」

と、ズバリおっしゃっているのです。

関東で20年、「往生極楽の道」以外、親鸞聖人の教えはなかったことが知らされます。

「往生極楽の道」とは、何でしょうか。

「必ず極楽浄土へ往ける身にしてみせる」と誓われている、阿弥陀仏のお約束(誓願)のことです。

ですから親鸞聖人は、弥陀の誓願を「往生極楽の道」と言われたのでしょう。

その阿弥陀仏の誓願に疑念が生じ、「往生一定の大安心になりたい」ひとつに命をかける、関東の同行たちの心情は十分理解できます。

 

真剣な聞法を勧められた親鸞聖人

親鸞聖人は常々、真剣な聞法を勧めておられました。

 

たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名を聞く人は
ながく不退にかなうなり

(浄土和讃)

 

“たとい、大宇宙が火の海になろうとも、そのなか仏法聞き抜く人は、必ず不滅の幸せに輝くのだ”

浄土真宗・中興の祖と仰がれる蓮如上人も、同様に教えておられます。

 

「火の中を 分けても法は 聞くべきに
 雨風雪は もののかずかは」

 

「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし、
 世間の隙をあけて法を聞くべきように思うこと、
 浅ましきことなり」

(御一代記聞書)

 

“世間の仕事(世間の隙)を止めて聞かねばならぬ大事が仏法。仕事の合間に聞けば良いなどと思っているのは、本当の仏法が分かっていないからである。哀れなことだ”

厳しく聞法を勧めるのが浄土真宗の教えです。そのように親鸞聖人から教えられたことを関東の同行は胸に刻んで、親鸞聖人のおられる京都に向かったに違いありません。

浄土真宗の住職、門徒総代は、御門徒の皆さんに、聴聞の大切さを伝え、聞法されるよう、教え勧めていかねばなりません。それが親鸞聖人の教えだからです。

 

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