『正信偈』の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とは

親鸞聖人ご自身の心の叫び

親鸞聖人の『正信偈』の冒頭に書かれてある

 

帰命無量寿如来 南無不可思議光」

 

について解説しましょう。浄土真宗の住職、また門徒総代の方々は、ぜひとも覚えて、御門徒の皆さんにお伝えください。

これは、「親鸞、無量寿如来に帰命いたしました。親鸞、不可思議光に南無いたしました」と言われているお言葉です。

どこにも「親鸞」とはありませんが、これは他人のことではなく、親鸞聖人ご自身のことをおっしゃったものです。

 

「無量寿如来」「不可思議光」とは

「無量寿如来」「不可思議光」とは、共に阿弥陀如来のことです。

阿弥陀如来は、「阿弥陀仏」「弥陀如来」「弥陀」とも言われる仏さまのことで、蓮如上人は『御文章』2帖目8通に、

 

「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり」

 

と言われています。

地球上で仏のさとりを開かれた方は、お釈迦さまだけです。
これを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われます。

しかし、大宇宙には、地球のようなものは無限と言ってもいいほどありますから、数え切れないほどの仏様が大宇宙にましますのだと、お釈迦さまは説かれています。

それらの仏方のことを、蓮如上人はここで「三世十方の諸仏」と言われているのです。

「三世十方」とは、仏教では大宇宙のことを言います。

大日如来や薬師如来、よく知られている奈良の大仏はビルシャナ如来と言われる仏ですが、皆、三世十方の諸仏のお一人です。

その大宇宙にまします仏方の、本師本仏が阿弥陀如来である、と言われている「本師本仏」とは、仏の中の王様、先生の仏、指導者のことで、すべての仏方は、皆、阿弥陀如来のお弟子ということになります。

お釈迦さまも、「三世十方の諸仏」の中の一仏ですから、阿弥陀如来とお釈迦さまの関係は、先生と弟子、師弟関係なのです。

弟子の使命は、先生の御心を一人でも多くの人に伝えること以外にはありませんから、弟子であるお釈迦さまは、先生である阿弥陀如来のことばかり教えていかれました。

本師本仏と仰がれるのは、たくさんの凄い力がある、他の仏とは桁違いの仏徳をそなえておられるからです。
阿弥陀如来は、そのお徳、力に応じて色々なお名前を持っておられ、中でもよく言われる二つが、「無量寿如来」と「不可思議光如来」ですから、親鸞聖人は『正信偈』の最初に、阿弥陀如来のことを、この二つのお名前で呼ばれているのです。

 

「帰命」「南無」とは

「南無」はインドの昔の言葉、「帰命」は、中国の昔の言葉です。

ご存知のとおり、仏教はお釈迦様がインドで説かれ、中国に伝わり、韓半島を経て日本に伝来しました。
ですから、仏教ではインドの言葉、中国の言葉がよく使われています。

「南無」は、インドの発音に漢字を当てた音標文字で、字そのものに意味はありません。それが中国に伝わり、「帰命」という言葉に翻訳されたので、「南無」と「帰命」は同じ意味です。

日本の言葉では、
「救われた」「助けられた」
ということですから、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
の2行は、
「親鸞は、阿弥陀如来に救われたぞ、親鸞は、阿弥陀如来に助けられたぞ」
と、同じことを2回おっしゃっているお言葉であることが分かります。

 

叫びつくせない喜び

2回ということは、2回だけでなく何度も言わずにいられない、どれだけ書いても書き尽くせぬ喜びを、表されているのです。

大学入試や司法試験でも、苦心惨憺の末にやっと受かった時「受かった、受かった、やった、やったー!」と跳び跳ねて喜びます。

待って待って待ちわびて、求めても得られず苦しんでいたものが獲られた時には、その喜びから何度でも同じことを言わずにいられないことが私たちにもあります。

『正信偈』の最初に重ねて

「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
 阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」

と親鸞聖人がおっしゃっているのは、阿弥陀仏の救いに遇われた感動、驚き、喜びの限りないことを叫ばれているお言葉なのです。

『正信偈』の意味をやさしく解説した動画がありましたので、御紹介しましょう。

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コメント: 1
  • #1

    岡崎秀一郎 (金曜日, 07 9月 2018 13:02)

    浄土真宗 山形市善福寺の門徒です。いろいろ教えて下さい。