お灯明とお仏花にはどんな意味があるのですか?
御仏壇の荘厳にも、一つ一つ意味があります。
お灯明と、お仏花には、それぞれどんな意味があるのでしょうか。
解説しましょう。
お灯明は、阿弥陀仏の「智慧」を表し、お仏花は、阿弥陀仏の「慈悲」を表しています。
智慧とは、私たちの苦しみの元をぶち破る働きをいい、これをまた「光明」ともいわれます。
慈悲とは、私たちを本当の幸せにしてくださる働きです。
阿弥陀仏には、たくさんのお徳(特長)がありますが、中でも際立っているのが、光明(智慧)無量と寿命(慈悲)無量の二つです。
私たちの苦しみの根元を照破する、計り知れない力をもった仏(光明無量)であると同時に、未来永遠、幸せに救ってくださる命に限りのない仏(寿命無量)が阿弥陀仏なのです。
ですから、阿弥陀仏の作られた「南無阿弥陀仏」の御名号には、阿弥陀仏の限りなき智慧と慈悲の絶大なお働きがおさまっています。
その阿弥陀仏の智慧をお灯明で、慈悲をお仏花で表されているのです。
仏様の慈悲とは
日常生活で、
「あの人は慈悲深い人だ」
「無慈悲な人だ」
と、慈悲という言葉を使います。
「あいつはどうにもならんやつだ」
と周り中から見放された人でも見捨てず、同情し、救いの手を差し伸べる人があれば、慈悲深い人だと思うでしょう。
反対に、自分さえよければ他人はどうでもいいと、困っている人を見ながら素通りする人があれば、無慈悲な人だと思います。
仏さまの慈悲は、
「衆生苦悩 我苦悩 衆生安楽 我安楽」
といわれます。
衆生(私たち)の苦しみ悩みが、仏様の苦しみであり、衆生(私たち)の幸せをご自分の喜びとされるのが仏の慈悲、大慈悲です。
人間の慈悲の場合
人間の慈悲の場合、自分の好きな相手なら心配し、幸せを願うこともありますが、嫌いな相手ともなるとどうでしょう。
「幸福とは、他人の不幸を 見て喜ぶ快感」
と毒舌家A・ビアスは『悪魔の辞典』に書いています。
自分より勝っている人が失敗したり、災難に遭ったら、「お気の毒に」と言うそばから愉快に思う心が出てきます。
宝くじは自分に当たってほしい、台風や地震はほかへ行ってほしいと願っています。
出世したとか、結婚したとか、他人の幸せは面白くありません。
「衆生苦悩 我安楽 衆生安楽 我苦悩」
が、悲しいかな実態ではないでしょうか。
浄土真宗の祖師・親鸞聖人は、ご自身の心の実態を知らされて、
「小慈小悲もなき身(無慈悲な親鸞である)」
と悲嘆なさっています。
宅診の医者と往診の医者
苦しんでいる人を見てじっとしておれないのが仏様の慈悲です。
それはちょうど「往診の医者」に例えられるでしょう。
病で苦しんでいる人に、
「つらかったら夜中でも病院に来なさい」
というのは宅診で、これも慈悲には違いありません。
でも、病院まで来られない、あるいは行く気のない重病人がいたら、医師は積極的に患者の元へ出掛けていき治療を施します。
これが往診です。
仏の慈悲はそのように、能動的なものなのです。
大宇宙の仏は皆、大慈悲の方ですから、苦しみ悩む私たちを何とか幸せにしてやりたいと一度は立ち上がられました。
ところが私たちの罪悪があまりに重かったため、
「空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり」
(御文章2帖目8通)
私たちは、諸仏の悲願(大慈悲の願い)に洩れて、見捨てられたのだと蓮如上人は教えられています。
昨今、不景気で雇用が悪化し、学生の就職難が伝えられています。30社を回って一つも内定が取れなかったら皆、ショックで落ち込むでしょう。
ところが大宇宙の仏方から見捨てられたと聞いても、ビックリも、しゃっくりもしないのはどうしたわけでしょうか。
こんなニュースがありました。
ある村で、早朝や夜間の往診も献身的に続けている医者がいた。年間休診日はわずか18日。雪の中、深夜3時でも点滴や酸素ボンベを持って駆けつけた。急患にすぐ対応できるようにと診療所向かいの自宅に自費で照明も設置。
ところが「税金の無駄使いをしている」と言いがかりをつける人がいた。ゆっくり昼食を取る時間も無く、診療所内でパンを買えば「患者を待たせて買い物か」と冷たい言葉を浴びせられた。盆明けに休診すると「平日に休むとは何ごとか」と批判。
ついに医師は辞表を提出し、村は無医村になる可能性が高いという。
「村民が自分で自分の首を絞めている」
と関係者はため息をついている。
聞けば何と愚かなと思いますが、大宇宙の仏方に見放された自覚もなく、自業自得で流転を重ねている私たちは、それ以上に愚かではないでしょうか。
しかし、そんな諸仏に捨てられた者なら、なおかわいい、と立ち上がってくださる方がありました。
それを蓮如上人は、
「今の如きの諸仏に捨てられたる
末代不善の凡夫・五障三従の女人をば、
弥陀にかぎりて『われひとり助けん』という
超世の大願を発して」
(御文章2帖目8通)
と、教えられています。「弥陀にかぎりて」、阿弥陀仏だけが「われひとり助けん」と底なしのお慈悲で奮い立ってくだされたのです。
仏様の智慧とは
阿弥陀仏は、超世の大願を発されたとありますが、「超世の大願」とは、世を超えた素晴らしい誓いのことです。
この「世」とは大宇宙のこと。
大宇宙の諸仏もなしえなかったその誓いとは、
「すべての人の苦しみの根元である無明の闇をぶち破り、未来永遠の幸せに救ってみせる」
というお約束です。
無明の闇とは、何のために生まれ、生きているのか、なぜ生きねばならぬのか分からない、後生暗い心をいいます。
人生の根底にある不安。駆り立てられるように新しい刺激を求め、熱狂を欲するのも、何かでごまかさずにはいられない不安からでしょう。
その不安、苦しみの根本である無明の闇を破ることは、大宇宙 広しといえども弥陀しかできません。親鸞聖人はそれを、
「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」
"弥陀のお力(無碍の光明)は、無明の闇をぶち破る智慧の太陽である"
と主著『教行信証』の冒頭に仰っています。
天に二日なし。空に太陽は一つしかないように、無明の闇を破る力は阿弥陀仏にしかない、との確言です。
阿弥陀仏が大宇宙の諸仏方の本師本仏と仰がれるのは、実にこの光明・智慧が諸仏にズバ抜けて優れておられるからなのです。
「我を信じよ。平生の一念、必ずおまえの心の闇を破り、未来永遠の幸せにしてみせる」
と、阿弥陀仏は今も眼前で、お叫び通しです。
南無阿弥陀仏の御名号を与えて、罪業深重の私一人を救おうと全力を挙げておられるのです。
その南無阿弥陀仏に込められた阿弥陀仏の広大な智慧と慈悲を表しているのが、お灯明とお仏花です。
南無阿弥陀仏のこころを知り、一日も早く弥陀の御心に飛び込ませていただきましょう。
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